戦後の梅田の発展

昭和20年、太平洋戦争終戦直後大阪にアメリカ軍が進駐し、梅田を始め、天王寺、鶴橋等に闇市が出現し始めた。内地に在留していた軍の復員者目当てに、パンやさつまいも類を売る人々の群れが、大阪駅前や市内のターミナルに現れたのが闇市の始まりだったと言われている。闇市にはありとあらゆる物が揃えられ、その価格は法外に高く、並べられた品物には正規ルートを通らないものや、盗品まであった。しかし、庶民にとっては必要な物をそこで手に入れるしかなく、闇物資は飛ぶように売れ、次第にその数を増していった。出現当初手をこまねいていた警察も、昭和22年に強制的に闇市を閉鎖させた。闇的な露天商が全くなくなったわけではないが、これ以降次第に数を減らし、昭和23年頃から新品も出回ったので、昭和24年頃には経済状況も好転の兆しをみせていた。昭和25年建築業法と、相前後して、建築士法と建築基準法が建設三法と呼ばれて制定された。この結果、従来の市街地建築物法や臨時建築等制限令などが全て廃止され、基準法のみで取り扱われるようになった。それに伴い、長期間抑制されていた耐震耐火建築物が一斉に計画され、「ビル・ブーム」の出現となった。この影響で昭和26年の阪急空港ビルを始め、昭和27年には経済会館ビル、昭和28年には、当時の最高層ビルであった第一生命ビルが完成した。この第一生命ビルは 12階建て43メートルと現在に してみればたいした事ない のであろうが、当時においては画期的な建築物であった。従来は法的な支障があり、 31メートルしか建築できなかったのを10メートルも超えて建てられたのだから、当時の人は高々と空を見上げたのだろう。「ビル・ブーム」は梅田という街をことごとく変えていった。ショッピングビル、オフィスビルをはじめ、映画館や劇場なども次々と建ち始め、昭和30年頃には日本を代表する商業都市といえる程の発展を遂げていた。そして昭和38年、梅田地下センターが完成し本格的な「地下型都市」の顔を見せ始めることになる。梅田地下センターは「ウメチカ」の愛称で多くの人々に親しまれ、その規模は数キロメートルにも及び、日本一の大地下街が出来上がった。そして、更なる発展を目指し都市再開発を推し進めることになった。

梅田地下センター